本記事は
デザインウィーク2026
1日目の記事です。
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2日目
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自分の目でみて、考える
長田です。お久しぶりです。
私のブログは、デザイナーに限らず、さまざまな職種の方に読まれることを想定しています。
そうした方々にとって、UXデザインの仕事はどのようなものに見えているでしょうか。
「何を作るか、どう改善するかを検討すること。」
「あるいは、システムの画面構成や導線、機能を設計すること。」
まずはそのようなイメージを持たれるのではないかなと思います。
言うまでもなくそれらもUXデザインの重要な成果です。
ただ最近、UXデザインの本質はやはり、『見て考える』ことにあるのではないか、と私自身はあらためて感じています。
しかもその重要度は以前よりも確実に高まってきている。そんな実感があります。
ユーザーが何を期待してそのサービスに向き合っているのか。どんな場面でそのシステムに触れるのか。
こうしたことを十分に理解しないまま設計を進めると、当初はユーザー体験の向上を意図していたはずなのに、結果としてシステムの表層だけを整えて終わってしまうことがあります。
厳しめに言うなら、それはUXデザインをしているようでいて、実際には体験設計としては十分に形にできておらず、ユーザーに届いてはいない状態なのです。
その情報だけでは体験全体はわからない
ただ、この「見る」という行為は、口で言うほど簡単ではありません。
むしろ難しいと私は思っています。
ともすれば、私たちはすぐにユーザーに向き合っているつもりになってしまいます。
アクセス解析を見て、アンケート結果を整理して、「なるほど、こういう課題ですね」と言いたくなる。
もちろんそれらは重要な情報です。
ですが、私を含めみなさんの関与以前に可視化されたものだけが、現状のユーザー体験のすべてを表しているわけではありません。
ユーザーは、自分が困っていることをいつでも正確に言葉にできるわけではありません。システムの不便さに慣れてしまい、それを当たり前として受け入れていることもあります。
もっといえば、ユーザーが強く語る要望がそのまま最重要課題であるとも限りません。
表層に現れている事象だけを追いかけていると、見えているようで見えていないまま、肝心なことを見落としてしまうのです。
この見落としこそが、UXデザインの難しさの大部分を占めていると思います。
見ることで意味が変わる

この見落としに気づくためにも、ユーザーの実際の使い方やその前後にある状況を確認していくことが大切になります。
どんなときに、どんな場所で、どのような気持ちで使っているのか、何か別の作業をしながらなのか、周囲からのフォローはあるのか、などなど。
そうやって文脈を見ていくと同じ操作であっても、その意味はずいぶん変わってきます。
たとえば、あるサービスのある画面で離脱が多いという事象があったとします。
それだけを見れば、「入力フォームの項目数が多いからだ」と考えたくなるかもしれません。
ですが実際のユーザーの操作や思いを見ていくと、その時点でモチベーションが切れてしまっているのかもしれない。
あるいは、説明が不足しているからではなく、そのタイミングではまだ決断をしたくないのかもしれない。
そうしたことは表層に現れた事象だけを追いかけてもなかなか見えてきません。
UXの論点は画面の中だけにあるわけではなく、むしろその前後や周囲まで含めて見にいかないと、本当に向き合うべきユーザーの体験は見えてこないのです。
観察だけでは価値にはならない
ではユーザーの観察さえすれば十分なのかというと、そうではありません。
ここもまた、UXデザインの難しさであり、おもしろさでもあると思いますが、見えてきたものをそのまま並べただけでは、ユーザーに提供できる価値にはなりません。

観察を通じて気づいたことを、どのように捉え、何が重要なのかを整理すること。
そのうえでどのような体験を価値として提供したいのかを考えること。UXデザインにはこの思案の工程があります。
そして、そこで必要になるのが、『自分の言葉で語る』ということです。
これは、うまい表現をひねり出しなさいという話ではありません。
自分が見たことを、自分なりに理解し、咀嚼し、それを他の人に伝わる言葉にしていくことです。
ユーザーには何が起きていたのか。
自分はなぜそれが気になったのか。
そこにどんな体験価値を提供できる可能性があるのか。
そうしたことを自身の実感を伴って表に出していく。
その工程があってはじめてUXデザインとして前に進むことができるようになるのです。
借り物では前に進めない
ここで私が強く思うのは、借り物の言葉ではこの工程はうまく進まない、ということです。
聞き心地がよい言葉や、それらしく整った表現だけでは、自分たちなりに考えたユーザー体験の輪郭は見えてきません。
自分が見たことを受け留める。
それに対して共感し、考え、自分の言葉で表現してみる。
この工程があるかどうかで、自分がやるべきことの明確さも、同じチームに参加している人たちの腹落ちの仕方も、施策として提案できる内容の厚みも、確実に変わってきます。
今は誰でもAIを利用してそれらしいアウトプットを得られる時代です。
だからこそ、『自分の言葉で語る』ことの重要性は、むしろ上がってきているのではないかと、私は思っています。

文脈をみることの実践
NHKの連続テレビ小説で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とその妻セツをモデルにしたドラマ、「ばけばけ」が放映されていましたが、デザイナー目線からしても興味深い題材でした。
史実における八雲の功績は、日本の人々や風俗、その感性を世界に紹介したこととして認められています。
彼は日本各地の暮らしや語りの中に自ら身を置いて、自身の感覚でそれを受け留め、文章にしていきました。
もちろん、小泉八雲は文筆家であって、新しいサービスをつくったわけではありませんし、日本文化のすべてを書き尽くしたわけでもありません。
それでも、自分が見て感じたことを自分の感性で書き表したからこそ、後の人々が日本人の感性や文化の一側面を理解する手がかりとなり、その作品が今なお読み継がれているのだと思います。
今、求められていること
現代ではAIが猛スピードで普及し、情報を集めることや、きれいな形に整えることは、以前よりずっと容易になりました。
ただ、その潮流の中にいるからこそ、私たち自身が何を見て、どう受け留め、そこからユーザーのために何をするのかが問われているのだと思います。
これは遠回りに聞こえるかもしれませんが、その積み重ねの先にこそ、自分たちが主体的に関与して提供するUXが生まれるのだと考えます。
小泉八雲は『怪談(Kwaidan)』の執筆において、妻のセツに語り部をさせていますが、すでにあった書物を読みあげるのではなく、「あなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません」と語ったことが伝えられています。
これはドラマでも非常に印象的なエピソードになって取り上げられていました。
UXデザインでは、むしろこの感覚こそが大切にしたいポイントなのだと思います。
それが疎かになってしまっては、この先私たちは主体的にUXを考える力を失いかねない。
私はそう感じています。

【ウェビナーのご紹介】
直前ではありますが、4月22日(水)に、私たちはAIと一緒にどう活動していくべきなのかを考えるウェビナー、「AIとの共創をUXデザインで高める〜UXで主導権を握るAI導入の実践〜」 を開催します。
UXデザインでAIを活用して行きたい方や、AIと差別化して人はどんなタスクを担うのかを考えたい方は是非ご参加ください。
[ウェビナーは終了しました。ご興味のある方は下記URLよりお問い合わせください。]
